命のビザ

カウナスでの宿泊の手配を済ませた後、
カウナスに寄った目的である、

旧日本領事館跡となる杉原記念館へ。

1939年9月に第二次世界大戦が勃発。
ドイツと旧ソ連はポーランドを占領し、
約12000人のポーランド系ユダヤ人は当時まだ独立国のリトアニアに避難。
2ヶ月後、杉原千畝領事代理はカウナスに日本領事館を開設。
1940年6月、旧ソ連がリトアニアを併合し、ナチスドイツがヨーロッパの大部分を支配。
戦争亡命者のポーランドユダヤ人の生き延びる唯一の手段は、
旧ソ連を通り日本、さらにその先へと辿り着くこと。
何百人もの亡命者が杉原千畝領事代理のもとを訪ね日本への通過ビザの発給を嘆願。
旧ソ連によるリトアニア支配のあと、
旧ソ連はカスナスにあるすべての外国大使館を閉鎖するように通達。


そのような状況でできるだけ多くのビザを発給するように急ぎました。


日本領事館では2193通のビザを発給。。
通過ビザの発給には最終受入国の許可、十分な旅費、身分証の提示など様々な条件が存在します。
が、駆けつけたユダヤ人の多くはその条件を満たしていたのはごく1部でした。


さらに当時の日本はドイツとの日独防共協定を締結していて、
ドイツとの友好関係を保つ必要があります。
ユダヤ人にビザを発給すればナチスを刺激する可能性もある。


杉原千畝はビザの発給によって家族が危険にさらされる可能性も危惧しなければなりませんでした。

これらの問題を踏まえつつ、ユダヤ人たちを救うために日本に許可を求めたが答えはNO。
それでも本国の指示に反してビザの発給をしたのでした。

1940年8月25日、日本領事館は閉鎖。

領事館閉鎖後もカウナス市内の「ホテルメトロポリス」に移りビザの発給を続ける。
その後9月5日、リトアニアを離れるカウナス駅のホームでもビザを書き続け、
列車に乗ってからも車窓からビザを発給し続けました。


3000枚以上、子供や家族を含めるとビザを受け取った人は6000人以上になる。


今回のバルト三国視察の目的の1つが果たせました。

杉原千畝記念館
11〜4月 月〜金 11〜15時 土日休館
5〜10月 月〜金 10〜17時 土日 11〜16時

17時までだったので何とか間に合ってよかったです。

街の中心から外れています。
普通の住宅地で駐車場もありません。
邪魔にならないよう路肩に乗り上げて路上駐車をし入館。
(ごめんないさい)
ちょうど周辺で工事をしていて、
中の職員さんに「ちょっとだけ車移動させて」と見学中に言われましたが、
怒られはしなかったです(路上駐車をすすめている訳ではありませんよ)。

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